私達一般大衆にとっての『雑学:神道の世界・天皇の世界』         

私も日本人ですので仏教と同じように,一般人としての神道の常識とされるところを纏めてみようと思います。
 ギリシャ神話では創造主ゼウスの下に様々な神々が人間社会と同じような快楽な生活を送っていたようです。
ローマ神話では太陽神ユピテルの下に,やはりいろいろな神がいて,古代ローマ帝国の皇帝も名を遂げた退位後(死後)には元老院が承認すると神になってしまったようです。
日本でも八百万の神といわれるように,高い山・巨大な岩・巨木・深い森・尽きることのない泉・雷・大きな滝等など存在感のある自然に昔から神を感じ,今も素直に信仰に近い感情を持っています。いずれも多神教と言われています。
これに対し世界宗教とされるユダヤ教・キリスト教・イスラム教などは,いずれも非常に強く排他的な一神教で,多くの日本人にはちょっと馴染むこと(信仰すること)に抵抗があります。
(Ⅰ)日本神話
    参考:河合隼雄著『神話と日本人の心』,林道義著『日本神話の英雄たち』,邦光史郎『日本の神話』
日本神話は土着の昔話及び古事記/日本書紀という完成度の高い文書によって現在に伝えられている。
古事記は712年(和銅五年)に,日本書紀は720年(養老四年)に編纂された。
古事記は当時伝えられてきた神話を比較的忠実にたどっているのに対し,日本書紀は中国などの先進国に対し日本という天皇中心の統一国家の起源を公式に著わすという国家の目的に従い編纂されたため,古事記と比べ天皇にとって都合の良い方向での編集が加えられていると言われている。
(a)天地のはじめ:混沌(カオス)から“天地のはじめ”の世界(クラゲのように漂っている状態)へ
 高天の原に三柱の神が現れる
  ◎アメノミナカヌシ(天之御中主神)
  ◎タカミムスヒ(高御産巣日神:父性)=タカギノカミ(高木神)→オモヒカネ(男神):思考の能力
  ◎カミムスヒ(神産巣日神:母性):後に八十神に謀殺されたオオクニヌシを生き返らす
     ↓
     ↓神代七代
     ↓
  ◎イザナキ(伊邪那岐神:男神)
  ◎イザナミ(伊邪那美神:女神)

     ↓“天つ神”の命により『天の沼矛』を天の浮橋に立て,引き上げ『おのごろ島』を誕生させる:国生み神話
      淡路島・四国・九州・本州(=大八島)や海神・河神・風神・山神など万物を生み(産み)出す
      最後に火の神を産み,イザナミは焼け死んでしまう
 イザナミの死 → イザナキは黄泉の国にイザナミを追うが,ウジが湧く『死の女神』のイザナミの姿を見て現世に逃げ戻る
 戻ったイザナキは川で禊ぎをして,その左目から◎アマテラス(天照大御神:女神)→高天原を治めることを命ぜられる→五人の男性神
 右目から◎ツクヨミ(月読命:男神)→葦原中国(アシハラノナカツクニ:夜の貧国)に行くことを命ぜられる
 鼻から◎スサノヲ(律速須佐之男命:男神)が生まれる→蒼海之海(アオウナハラ)を納めるように命ぜられる→スサノオの十拳剣から三人の女性神誕生
     ↓
 女性神誕生でアマテラスとの誓約(うけひ)に勝利?したスサノヲは悪業を続ける
     ↓
 困ったアマテラスは天岩戸にこもり,闇の世界となる
     ↓オモヒカネの策で,アメノウズメの踊りで岩戸を少し開けると,タジカラヲがアマテラスを引き出す
 スサノヲは追放され,出雲国に降りる。そこで『八岐の大蛇』を眠らせ,十挙剣をもって切り殺す。この時大蛇の尾から出てきた『草薙の大刀』を姉のアマテラスに献上する。
スサノヲは八岐の大蛇の犠牲にならなかったクシナダヒメと結婚する。
 出雲須賀の地で詠う『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を』は,わが国最古の和歌とされる
景行天皇の次男ヲウスノミコト(小碓命)も乱暴者で父に西方の反抗者クマソタケルを討つよう追いやる。
 討たれたクマソタケルは死の直前に“タケル”の名をヲウスに贈り,以後◎ヤマトタケル(倭建)と呼ばれ。
 天皇は倭建に更に東征を命ずるが叔母のヤマトヒメから『草薙の剣』を与えられる。
 倭建は航海中に荒れた海で妻のオトタチバナヒメを犠牲として失い,最後は伊吹の山で命を失う。
     ↓スサノヲの五世の孫
 ◎オオクニヌシ(大国主神)
   オオクニヌシは多くの兄弟(八十神)に疎外されるが優しく接した“因幡の白兎”にヤガミヒメ
と結婚するだろうと予言される。
   ヤガミヒメに拒絶された八十神はオオクニヌシを焼き殺すが,母親が生き返らせる。
   母はスサノヲの治める根の堅州国に逃がす。
   スサノヲの娘スセリビメと結ばれたオオクニヌシは,スサノヲに何度も難題をかけられるが妻や
動物たちに助けられ難を逃れる。
   ついにスサノヲは彼を受入れ彼が『宇都志国玉神』となることを予言する。
   オオクニヌシはスクナビコナ(少名毘古那神:カミムスヒの子供)と共に出雲の(日本の)国造りを行うが,その後スクナビコは去る。
  国引き神話:出雲神話ではヤツカミズオミツルノミコト(八束水臣津野命)が三瓶山と大山に網を掛け引き寄せて島根半島を作ったと言われる。
  アマテラスは息子のアメノオシホホミに葦原の水穂国の統治を宣言する
  さらにアメノホヒ・アメノワカヒコ・タケミカヅチ+アメノトリフネと次々と出雲に送り込み,ついにオオクニヌシは高天原系への国譲り』を承諾し,宗教的支配権だけは引き続き保持することになった。
     アマテラス→アメノオシホホミ父
                   →◎ニニギ(息子) ・・・・オオヤマミツの娘コノハナノサクヤヒメ(木花佐久夜毘売)と結婚
     タカムスヒ→タクハタチヂヒメ母 ↑仕える
                    サルダビコ(猿田毘古神)
   ニニギ◎ホデリ(長男:海幸彦)と◎ホヲリ(次男:山幸彦)及びホスヘリ(三男)
         ↓ホデリの釣り針を失ったホヲリは海底に向かい,海神の娘トヨタマビメと結婚
       ◎ウガヤフキアヘズ
         ↓
       ◎カムヤマトイハレビコ(神武天皇)
         
↓東に国を求め熊野から八咫烏に導かれ大和に至り橿原に宮居する
         ↓オオモノヌシの娘ヒメタタライスケヨリと結婚
       ◎カムヌナカハミミ(綏靖天皇)

 
歴代天皇 : 神武天皇から今上天皇まで

(Ⅱ)日本国家神道
      
参考:島薗進著『国家神道と日本人』 林道義『日本神話の英雄たち』ほか
 さてわが国の神道は,前記のような自然を敬う土着の民族宗教/信仰(古神道とよぶ場合もあるらしいが,自分としては神教という表現がピンとくる)と古事記及び(特に)日本書紀に由来する天皇信仰がありました。天皇信仰は国家神道という形態で一大勢力を持っていた時代があったが,武士勢力が国家を統率するようになった11世紀以来19世紀後半の江戸末期までの長い期間は民衆のレベルに勢力を強めた仏教の影響の下で,むしろ神仏習合という日本特有の姿で民衆に支持されてきたと言われる。
幕末になり外圧の影響で尊皇攘夷の混乱期となり,武家社会は崩壊することになった。いわゆる明治維新で,西洋化による国力増強が国是となり大変革の時となった。同時に明治政府は改めて国家(国民)の統合の中心の存在が必要となり,天皇を再び奉ることを考えた。
国家神道は天皇と国家を尊び国民として結束することと,日本の神々崇敬が結びついて信仰生活の主軸となった神道の形態であると言われる。
この国家神道は神社の活動よりは,政府が確立した教育勅語や修身を中心とした学校教育により広められ国民に定着したという見方がある。
その教育では“万世一系”の天皇崇敬が最も重要な骨格で,同時に皇室祭祀・祭政一致などが教育され政府の思惑以上に見事に定着していった。

軍隊がこれを利用して暴走したことは,その後の第二次世界大戦/敗戦と言う大きな国家・国民の不幸につながった。

 
神武天皇から今上天皇までの歴代天皇
第一期『形成期』:明治維新(1868年)から明治20年代
第二期『教義的完成期』:帝国憲法発布(1889年)から日露戦争(1905年)
  明治23年(1890年)『教育勅語』発布      修身教育
   朕惟(オモ)フニ 我カ皇祖皇宗国ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠ニ 徳ヲ樹(タ)ツルコト深厚ナリ
   我ガ臣民 克(ヨ)ク忠ニ 克ク孝ニ 億兆心ヲ一(イツ)ニシテ 世々(ヨヨ)厥(ソ)ノ美ヲ
   済(ナ)セルハ 此レ我ガ国体ノ精華ニシテ 教育ノ淵源亦(マタ)実ニ此ニ存(ソン)ス
   爾(ナンヂ)臣民 父母ニ孝ニ 兄弟ニ友(イウ)ニ 夫婦相和シ 朋友相信ジ 恭倹己(オノ)レヲ
   持(ヂ)シ 博愛衆ニ及ボシ 学ヲ修メ 業ヲ習ヒ 以テ智能ヲ啓発シ 徳器ヲ成就シ 進(ススン)デ
   公益ヲ広メ 世務(セイム)ヲ開キ 常ニ国憲ヲ重ジ 国法ニ遵(シタガ)ヒ 一旦緩急アレバ 
   義勇公ニ奉ジ 以テ天壌(テンジャウ)無窮ノ皇運ヲ扶翼(フヨク)スベシ 是(カク)ノ如キハ 
   独リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラズ 又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
   斯(コ)ノ道ハ 実ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ 子孫臣民ノ倶(トモ)ニ遵守(ジュンシュ)スベキ所 
   之ヲ古今ニ通ジテ謬(アヤマ)ラズ 之ヲ中外ニ施シテ悖(モト)ラズ 朕 爾臣民ト倶(トモ)ニ 
 拳々(ケンケン)服膺(フクヨウ)シテ 咸(ミナ)其(ソノ)徳ヲ一(イツ)ニセンコトヲ 庶幾(コヒネガ)フ
 現代文訳] 朕思うに,我が皇祖皇宗が国の基礎を定めたのは遥か昔に遡り,その事業は偉大だった.
  道徳を確立し,手厚い恵みを臣民に与えた.我が臣民が忠孝を重んじ,全臣民が心を一つにして代々美風を
  まっとうしてきたことは,我が国体の誇るべき特色であり,教育の根本もまた,そこにある.
  爾ら臣民は父母に孝行し,兄弟は仲良く,夫婦は睦まじく,朋友は互いに信じ合い,自らは慎み深く節度を
  守り,博愛を衆に及ぼし,学問を修め技能を習うことで,知能を啓発し,立派な人格を磨き,進んで
  公益に尽くし,この世で為すべき務めを拡げ,常に国憲を重んじ法律に従い,ひとたび国家に大事が
  起きれば,正しく勇ましく公のために奉仕し,天地と共に永久に続く皇運を扶翼せよ.このように
  するならば,爾はただに朕の忠良なる臣民というばかりでなく,爾の祖先の遺風を世に明らかにする
  孝道を発揮することになる。
  ここに述べた道徳は,いずれも我が皇祖皇宗の遺訓であり,子孫である天皇と臣民が共に従い,
  守るべきものである.これらの道徳は古今を通じて誤りなく,世界に行き渡らせて道理に反することではない。
  朕は爾ら臣民と共に,これを常に忘れずに守り,皆で一致して立派な人格を磨くことを念願するものである。
                  ドナルド・キーン(角地幸男訳)『明治天皇 下巻』(新潮社)
     明治24年(1891年)『小学校における祝日大祭日の儀式に関する規程
                      紀元節・天長節・元始祭・神嘗祭・新嘗祭が規程される
      『紀元節』:1.雲に聳ゆる高千穂の。高根おろしに草も木も。なげきふしけん大御世を。
              仰ぐ今日こそたのしけれ。
            2.海原なせる埴安(はにやす)の池のおもより猶(なお)ひろきめぐみの波に
              浴(あ)みし世を仰ぐ今日こそたのしけれ
            3.天津ひつぎの高みくら。千代よろずよに動きなき。もとい定めしそのかみを
              仰ぐ今日こそたのしけれ。
            4.空にかがやく日のもとのよろずの国にたぐいなき国のみはしらたてし世を
              仰ぐ今日こそたのしけれ
      『天長節』:今日の良き日は大君の。生まれたまいし吉き日なり。今日の良き日は御ひかりの。
            さし出たまいし吉き日なり。ひかり遍ねき君が代を。いはえ諸人もろともに。
            めぐみ遍ねき君が代を。いはえ諸人もろともに。
第三期『制度的完成期』:明治30年代から昭和初期(1930年前後)
      明治28年(1895年)明治31年(1898年):日清戦争戦没者の靖国神社合祀の臨時大祭
      明治38年(1905年)39年(1906年):日露戦争戦没者の靖国神社合祀の臨時大祭
              → 春秋の靖国神社の例大祭日として今日に継続
         政教分離から『祭政一致の国家神道体制』へ
第四期『ファッシズム的国教期』:満州事変(1931年)から第二次大戦敗戦(1945年)
   昭和20年(1945年)『神道指令』(GHQ):国家神道の開体(ただし皇室祭祀の存続には触れず)
戦後GHQの政策的命令により天皇の人間宣言,祭政分離,信仰の自由などが強引にすすめられ国民主権のもとで神仏習合が再び広く受け入れられるようになった。
米国は歴史の浅い国で,長い歴史に対する尊敬の気持ちが異常に強く,さすがのマッカーサーも終戦を機に神道/天皇制を解体する暴挙は採用できなかったようだ(もちろん戦後の日本統治の政策的選択の結果であろうが)。
ところで前の皇太子が第一子を授かった時に,この親王を“ナルチャン”と呼び,マスコミも皆“ナルチャン”と親しみをこめて読んでいた。
現皇太子が第一子“愛子”を授かった時に,もちろん“アイチャン”と呼ぶことを希望すると思っていたが,そうはならなかったですね。 全マスコミも最初から“愛子様”と呼んで現在に至っているし,国民もそれに異論を挙げることはなかった。 この30~40年の間に国民の皇室の捉え方に何か変化があったようである。

(Ⅲ)現代の神道
        いまも続く皇室の大祭(天皇が主宰する祭祀):
             1月3日 元始祭
             1月7日 昭和天皇祭
             春分の日 春季皇霊祭・春季神殿祭
             4月3日 神武天皇祭
             秋分の日 秋季皇霊祭・秋季神殿祭
             10月17日 神嘗祭
             11月23日 新嘗祭
        皇居の宮中三殿
           賢所 :天照大神が孫のニニギ尊の降臨の際に自らの分身として授けた『八たの鏡』がご神体としてすえられる
                →後に鏡は伊勢神宮に移され,皇居賢所には『うつし』がおかれている
           皇霊殿:歴代の天皇・皇后・后妃・皇親の2,200余の霊が祭られる
           神殿 :『古語拾遺』に記載の八神と天神地祇が祭られる
        天皇の三種の神器
           鏡(八咫鏡やたのかがみ):伊勢神宮内宮安置説や皇居賢所安置説や壇ノ浦海没説など現在は不明らしい
             アマテラスが天岩戸を少し開けた時に,この鏡にアマテラスを映してタジカラヲが
             アマテラスを引き出したと言われる。天孫降臨の際にアマテラスが瓊瓊杵尊に授た
           剣(叢雲剣・草薙剣):熱田神宮に安置
             スサノオがヤマタノオロチの尾から取り出した。ヤマトタケルが授かり東征に出たが伊吹山で病死したため,タテルの妻宮簀媛は熱田神宮を建て剣を祀ったと言われる
           璽(八尺瓊勾玉やさかにのまがたま):皇居の剣璽の間に安置
             岩戸隠れの際に,八咫鏡と共に太玉命が捧げ持つの木に掛けられた
             天孫降臨の際にアマテラスが八咫鏡と共に瓊瓊杵尊に授た
 (A)伊勢神宮(三重県伊勢市):神社本庁の本宗(最高位)で皇大神宮(内宮)には天照大神を祭る。垂仁天皇25年に創建か
 (B)出雲大社(島根県出雲市):ご神体として大国主命を祭る,創建は諸説あり不明確。
                縁結びの神として広く知られる
 (C)熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区):ご神体として草薙剣(くさなぎのつるぎ)が祭られる。景行天皇43年(113年)に創建
 (D)熊野本宮大社(和歌山県田辺市):ご神体は諸説あり不明
 (E)春日大社(奈良県奈良市):鹿島の武甕槌命、香取の経津主命など四神を祭る.都された和銅3年(710年)に創建
 (D)鹿島神宮(茨城県鹿嶋市):香取神宮に祀られている経津主神とともに武芸の神とされている武甕槌神を祭神とし神武元年(紀元前660年)に創建
 (F)香取神宮(千葉県香取市):武芸の神とされる経津主大神を祭神として紀元前643年に創建とされる
 (E)太宰府天満宮(福岡県太宰府市):菅原道真(菅公)を祭神として祀る天満宮,延喜19年(919年)に創建  学問の神として広く親しまれる
 (G)北野天満宮(京都府京都市上京区):天暦元年(947年)に創建,太宰府天満宮と共に天満宮の中心的位置を占める
 (H)平安神宮(京都府京都市左京区):明治28年(1895年)に平安遷都1100年を記念した博覧会に大内裏を復元した建物を利用
 (I)明治神宮(東京都渋谷区):明治天皇を祭神として大正9年(1920年)に創建

終戦の詔書(玉音放送)
ところで第二次大戦の(敗戦)終結にあたり天皇自らが終戦の詔書をラヂオ放送した(いわゆる玉音放送)ことはドラマなどで何度もくり返されてきたが,この詔書で天皇はなんと言っているのでしょうか?
以下,その全文です。
当時の悪い音質で,この必ずしも平易ではない詔書を理解できたのは一部の聴取者だけだったかも知れないが,なんとなく戦争に負けたことは皆に伝わったような気もします。
 『(あらた)に残虐なる爆弾を使用して』と米国の原爆使用をきちんと糾弾しているのはさすがである。
更に『常に(なんじ)臣民と共に()り』と国民と痛みを共有する言葉は胸を打つ。


 朕(ちん)
深く世界の大勢(たいせい)と帝国の現状とに(かんが)み、非常の措置(そち)(もっ)て時局を収拾せむと(ほっ)し、(ここ)忠良(ちゅうりょう)なる(なんじ)臣民(しんみん)に告ぐ。
 朕は帝国政府をして(べい)(えい)()()四国(よんこく)に対し()の共同宣言を受諾(じゅだく)する(むね)通告せしめたり。
 抑々(そもそも)帝国臣民の康寧(こうねい)(はか)り、万邦(ばんぽう)共栄の(たのしみ)(とも)にするは、皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)遣範(いはん)にして、朕の拳々(けんけん)()かざる所。
 (さき)に米英二国(にこく)に宣戦せる所以(ゆえん)も、(また)実に帝国の自存(じそん)と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに()で、他国の主権を(はい)し、領土を(おか)すが(ごと)きは、(もと)より朕が(こころざし)にあらず。
 (しか)るに、交戦(すで)四歳(よんさい)(けみ)し、朕が陸海将兵の勇戦(ゆうせん)、朕が百僚(ひゃくりょう)有司(ゆうし)励精(れいせい)、朕が一億衆庶(しゅうしょ)奉公(ほうこう)、各々最善を(つく)せるに(かかわ)らず、戦局必ずしも好転せず。
 世界の大勢(たいせい)(また)我に()あらず。
 加之(しかのみならず)、敵は(あらた)に残虐なる爆弾を使用して、(しきり)無辜(むこ)殺傷(さっしょう)し、惨害(さんがい)の及ぶ所、(まこと)(はか)るべからざるに至る。
 (しか)(なお)交戦を継続せむか、(つい)に我が民族の滅亡を招来(しょうらい)するのみならず、(ひい)て人類の文明をも破却(はきゃく)すべし。
 (かく)(ごと)くむは、朕何を(もっ)てか億兆の赤子(せきし)()し、皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)神霊(しんれい)(しゃ)せむや。
 ()れ朕が帝国政府をして共同宣言に(おう)せしむるに至れる所以(ゆえん)なり。
 朕は帝国と共に終始(しゅうし)東亜の解放に協力せる諸盟邦(しょめいほう)に対し、遺憾(いかん)の意を(ひょう)せざるを得ず。
 帝国臣民にして、戦陣に死し、職域(しょくいき)(じゅん)し、非命(ひめい)(たお)れたる者、(および)()の遺族に(おもい)を致せば、五内(ごだい)(ため)()く。
 (かつ)戦傷(せんしょう)()い、災禍(さいか)(こうむ)り、家業(かぎょう)を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)する所なり。
 (おも)うに、今後帝国の受くべき苦難は(もと)より尋常(じんじょう)にあらず。
 (なんじ)臣民(しんみん)衷情(ちゅうじょう)も、朕()(これ)を知る。
 (しか)れども、朕は時運(じうん)(おもむ)く所、()(がた)きを堪え、(しの)び難きを忍び、(もっ)万世(ばんせい)(ため)太平(たいへい)を開かむと欲す。
 朕は(ここ)に国体を護持(ごじ)し得て、忠良なる(なんじ)臣民の赤誠(せきせい)信倚(しんい)し、常に(なんじ)臣民と共に()り。
 ()()(じょう)(げき)する所、(みだり)事端(じたん)(しげ)くし、或は同胞排儕(はいせい)互に時局を(みだ)り、(ため)大道(たいどう)を誤り、信義を世界に(うしな)うが(ごと)きは、朕(もっと)(これ)(いまし)む。
 (よろ)しく挙国(きょこく)一家(いっか)子孫相伝(あいつた)え、(かた)神州(しんしゅう)の不滅を信じ、(にん)重くして(みち)遠きを(おも)い、総力を将来の建設に傾け、道義を(あつ)くし、志操(しそう)(かた)くし、(ちかっ)て国体の精華(せいか)発揚(はつよう)し、世界の進運(しんうん)(おく)れざらむことを()すべし。
 (なんじ)臣民、()()く朕が()(たい)せよ。
御名(ぎょめい)御璽(ぎょじ)